パッチが死んだ日(その2)
9時半に岡本先生の車が家の前にとまった。おれが出迎えてパッチのいる居間に案内した。パッチは起きて岡本先生のところによたよた歩いていった。家に帰ってきた家族やお客さんを出迎えるのがパッチの仕事なのだ。こんなときにまでどうして? と思ったら涙が出てきた。パッチは岡本先生のことをよく知っているので、うちに来たのがうれしかったのかもしれない。不思議だったのかもしれない。
岡本先生は注射器と薬を鞄から出して、眠らせる薬であること、パッチは苦しくはないということを説明してくれた。そしておれたちの決定に対して「うちの犬でもこうすると思います」と言った。母は部屋を出ていってしまった。岡本先生は妹にパッチを抱くように言った。最後にパッチに少し水を飲ませてやった。妹はパッチが楽な姿勢になるように胸に抱いた。岡本先生は右の後ろ足に注射器の針を刺した。妹は鳴咽をもらした。おれは止めて欲しいと思った。この決断で良かったのかと思った。いつもより多い分量の薬をゆっくりと注射していく。半分ぐらいのところで「もうこれで死ぬんだ」と思った。取り返しの付かないことをしていると思った。パッチは眠くなってきたようだった。すべて注射しおわってパッチをベッドに横たえた。安心してぐっすり寝ているときのパッチだった。おれはパッチに何度か「またねー!」と言った。妹も言った。父は「先に行って待ってろ」と言った。岡本先生はずっと聴診器でバッチの胸の音を聞いていたがしばらくして「眠りました」と言った。10時だった。岡本先生がうちに来てから30分のことだった。
台所の母にパッチが眠ったことを伝えた。母は眠ったパッチを見て「嫌だ」と悲鳴に近い声を出した。パッチはまだ暖かく、不思議と表情が軟らかくなったように見えた。瞼が開いたままだったので指で閉じてやった。岡本先生は安楽死はペットにだけに許される治療ですと言った。
岡本先生は妹にペットの葬儀屋さんの電話番号を教えてくれた。パッチが死ぬまではペットに葬式を出し火葬にして骨を墓に入れるということが奇妙なことのように感じていたが、このときは何も不自然なことに感じなかった。家族なのだから当然のことだ。今でもそう思っている。おれたちは岡本先生にお礼を言った。岡本先生は「力になれなくてすみません」と言ったが、そんなことはない。岡本先生には今まで何度も助けてもらった。「お金は落ちついたときで良いです」と言って岡本先生は帰っていった。
明日は友引なのでペットの葬儀屋さんもお休みなのだそうだ。パッチの体はあと丸一日このままうちに置いておける。おれたちには良かったように思う。パッチの体を冷やしておかないといけないのだが、まだ暖かいものを冷やしてしまうのはかわいそうで、しばらくこのままにしておくことにした。母はパッチは寒いのが嫌いだったからと言った。生きているときは全然出なかったオシッコが出てきたので、しいてあるタオルを何度か取り替えた。何も食べていないのでウンチは出なかった。
それから家族はパッチのそばで夜を明かした。朝の4時ごろ冷凍庫から保冷剤を出しパッチの体の周りに置いた。これから次の日の朝まで24時間以上冷やす必要があるのでその準備もした。パッチの体は死後硬直で固くなっていた。それ以外は安心して寝ているときの様子なので動くところがもう見れないということが信じられなかった。父は、パッチを見ていると耳が動いたように見えると言ったがおれもそんな感じがしていた。パッチの毛の中から小さな蚤が3匹ほど出てきた。蚤なんていないと思っていたが少しはいたんだ。このぐらいならいないのと同じようなもんだが。パッチが冷たくなってきたので出てきたんだろう。母は現金なヤツと言いながらつぶしていた。おれは複雑な気持ちだった。
父は仕事があるので朝5時に車で富士に戻った。パッチに「仕事に行くからね」と言っていた。みんなほとんど寝ていなかったが朝になったので動き始めた。
おれは前から妹のMacintosh LC475でパソ通できるようにするという役目があって、実家に帰ったらそれをやってやろうと思っていた。モデムやケーブルを探すのに部屋をばたばたやっているとパッチにワンワン言われそうな気がして音を立てないように気を付けていた。ケーブルが足りなかったのでその日は横浜のヨドバシカメラと家を2回往復した。行き帰りの地下鉄の中で急に涙が出てきて困った。
居間で寝ているパッチを見るたびに罪悪感を感じたが、妹はパッチが苦しまなくなって良かったと言っていた。オレよりもパッチに近い妹がそう言うのが慰めだった。前にすい臓の病気からパッチが奇跡的に回復したときは、どんなに嫌なことやつらいことがあっても「パッチが元気になったからいいや」と思えばなんともなかったという。
おれは夜10時まで実家にいて「またね」と言って家路についた。昨日のこの時間だと思った。もうパッチはいなくなってしまったんだ。
パッチが死んだ日(その3)につづく
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